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ちょっと憂鬱な、はじまりの日。 [日々の暮らし]

長めだった冬休みも終わり、始業の日。
パパさんも、仕事始めの後すぐ連休だったので、今日からいよいよ通常モードという感じ。

制服やスーツに着替えて出て行く家族の背中が、心なしか緊張してみえました。
ドアの外は、まだ氷点下の朝でした。

・・・わたしも、いい加減通常モードにもどらなきゃ^^;明日からはお弁当もはじまるぞー。

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前回の記事に むだに付け加え。
わたしは、本当は 異なる意見を持った方と議論するのは大好きです。
物事を正しく見るためには、自分からは見えない場所からの視点というのは 絶対に必要なものだから。
私一人では到底知ることのできない 様々な事情や歴史や立場などが 複雑にからまって すべての物事が存在しているわけだから。
私一人の価値観で「これはこうだ」と判断するのは 非常に危険なことだと思うからです。

でも、ネットの世界で長く意見を発信していると、ときどき 意見の交換で疲れちゃうときがあります。
ほとんどの方は、配慮を持ってコメントをよせてくださるのですが、ときどき、ほんとに時々、「その日そのときの記事しか読んでいないのに、それまでの事情を一切考慮せずにコメントしてくる人」とか います。
そりゃー・・・この記事だけ読めば誰だってあなたの意見が正しいと思うでしょう、でも、でもたった1週間前に書いた記事から読んでくれれば、どうしてこうなったのか、あなたの意見のようにできなかった理由がわかるんですけど・・・と嘆きたくなるような経験を、何度かしてきました。
でも、それを伝えたところで、通りすがりの匿名の人だったりして、もう二度とお返事はなかったり。逆に、さらに勘違いして、ポイントの完全にずれたアドバイスを書き連ねていかれたり。
それが、その方の100%の善意から出ているであろう言葉であればあるほど、いやー・・・違うんですよ・・・と、事情を説明するのもむなしくなるわけです。
だって、せっかく善意でコメントしてくれてる方に、いわゆる2ちゃん流に言えば「半年ROMってから出直して来い」のような反論は、とてもできないわけで。せめて半年前からの記事を読んでてくれたら、私がこういう思いを抱く理由もわかってもらえると思うんだけどなぁ・・・とため息をつきながら、どうしたら、この方を傷つけずに納得してもらえるお返事を書くことが出来るだろうと、PCの前で頭を抱えることになるのです。

「こ難しい」問題であればあるほど、そういうすれ違いは起こりやすいな、というのは、長年やってきて感じているので、最近はだいぶ「あたりさわりのない話題」が増えています。こりゃ書いたらまずいな、という内容は 一旦書いても削除することもあります。

でも私は、ほんとに基本的には、自分と違う考えが聞きたくて仕方ないタイプなのです。
えぇっ知らなかった、そうだったんだ!という思いは、異なる視点を持つ方からしかいただけません。

世の中、正しいことはいくつもあります。どれかひとつが正しいなんてことはありません。
万人に同じサイズのパンが平等か、体格に合わせたサイズが平等か。という、究極の二択もあります。
あるケースでは、前者が平等。あるケースでは後者が平等。じゃあこのケースではどっち?・・・それをどう判断するか、多数決がいいのか?51対49だったら、49の意見を切り捨てていいのか?49側の意見は間違いなのか?49側になった人は、もう自分の意見を発言することすら許されないのか?・・・そんなはずは、ありません。

・・・ようするに、ここ(ブログ)のような、発言に際してのルールもない場所では、発展的な議論はなかなか難しいということです。
だから私はいつも、いくばくかの無念さ(他の意見もききたいんだけどなー。という思い)を抱えながら、反論は勘弁してください、と一言添えています。

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タイガーマスクこと伊達直人という方たちが、世間をにぎわせています。
私は、もし私があんなふうに援助を差し伸べられるだけの資金をもっていたとしたら、
日本中あちこちで支援の手が差し伸べられている今ではなく、来年以降に援助したいと思います。

困っている子の全員が、この4月に小学1年生になるわけじゃないから。
今回の一連の援助をみた、今5歳の子どもが、「来年はぼくもランドセルもらえるんだ!」って喜んでいるかもしれない。その隣で、4歳の子も、3歳の子も、来るべき自分の順番に心を躍らせているかもしれない。

では、今年援助した方がすべて、来年も再来年も同じように同じだけの援助をするだろうか?
ブームに乗って、いいことをしたと満足するのは、別の視点からみたら ある意味残酷な行為なのです。
100%の善意なのに、別の視点からみると、残酷な行為になってしまう場合もあるのです。

恵まれない子に匿名で支援する。すばらしい行為です。
だけど、そのニュースを聞きながら、私は「もらえなかった子の暗い瞳」を想像してしまう。
どうか、来年も再来年も、継続して支えてあげてください。
そのために 10個渡せるランドセルが 今年は1個になってしまっても いいんじゃないでしょうか。
ランドセルが鉛筆になってしまっても いいんじゃないでしょうか。
ブームに乗っていい気分になるのが目的ではなく、あくまで厚意であるならば。
私は、そう考えます。

<いや、今回これだけのニュースになったことで、このような支援の形を広く国民が知ることになった功績は大きい。これが個人で小額の援助だったら、伊達直人という名前を使っていなかったら、これだけの支援の輪が広がっただろうか?その点において、全国の伊達直人出現は 非常に良いことだ。>
↑という、考えもあると思います。その考えもきわめて正しいと思います。
だから、正解はひとつではないし、ひとつ以外は間違いというわけではないのです。

なかなかうまく書けないので、また誤解を招く表現も多々あるかと思いますが・・・。
いつものごとく、「おまえは間違っとる!」コメントは 勘弁してください。と書き添えて、この件おわります。


 

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